2009年7月10日 (金)

94. クライネシャイデック

Photo 6月23日(水)早朝はラウターブルンネン谷にガスがかかり、ヴェンゲンは雲の上の感じです。
8時30分のクライネ・シャイデック行きの電車、ほぼ満員。6名は進行方向右側に席を取りカメラを構えます。

Photo_2 村はずれのアルプには、牛の群れがカウベルを響かせています。待望のスイスにやってきたという気分に浸ることが出来ます。

Photo_3 ヴェンゲルンアルプ手前で大きく左カーブすると、ユングフラウの全山容が威圧感を持って目前に現れましたが、ガスに包まれてぼんやりしているなは残念です。
クライネシャイデックでは殆どの人が乗り換えました。グリンデルワルトから上って来た電車も全員が乗り換えました。

駅に残っているのは我々6人だけ。ク駅の周りをうろつきました。天気があまり良くなく山もボヤーッ
としているが目の前にみるアイガー、メンヒは顎を突き出して見上げねばなりません。
「ハッチャン、ファインダーに入りきらんヤロ」と冷やかすと「ヒヤー、ハイナ」と嬉しい返事が帰ってきます。

新田次郎のパネルの上の方に、なだらかな広い場所がありそこへ上り、ロケーションを案内し、土地勘を養ってもらいました。

WAB鉄道(ヴェンゲン・アルプ・バーン)は勾配がきつく、アプト式ラックレールを使っています。
坂を上がるときも下るときも動力車は必ず下側に位置しています。もしもの時は動力車のラックレールと噛み合う歯車が車輌全体を支えてくれ暴走を食止めるからです。
ヴェンゲンを通って上って来る電車はクライネシャイデックで必ず折り返します。グリンデルワルトへは降りていきません。何故なら上りでは動力車は最後尾です。グリンデルワルトへ下るときは先頭に
動力車がいないといけません。
グリンデルワルトから上ってくる電車も同じです。クライネシャイデックで折り返します。
途中のグルンドでは動力車の位置を入れ替えるためスイッチバックをして、グリンデルワルトへは最後尾から押して上っていきます。従ってWABはグリンデルワルトからヴェンゲンを通りラウターブルンネンへ行く直通電車はなく、クライネシャイデックのホームは
矢鱈長いのは何故かと考えたらこんな次第でした。

メンリッヘン方面への道、小高いところのレストランがあります。ここはクライネシャイデックを見下ろす絶好のポイントでベルナーオーバーランドの三山は勿論、電車の行き来まで眺められます。
展望櫓に登ればグリンデルワルトの眺望も抜群ですが、今日は曇っている上に風が強く無理です。
レストランの中に入り一休みしました。
午前中だから客は6名だけ。若いママさんに纏い付くように幼い男の子が柱の影から変な外国語を話す一行を覗いていました。
折り鶴を作ってあげたらというと、ハッチャンの相棒がビリビリとメモ帳を破り、またたくまに出来た大小3羽の折り鶴を手渡すと男の子はニッコリ。やがて、テーブルのそばに来るようになりました。 ママさんに聞くと3歳とか。可愛いい盛りです。

Photo_4 下りの電車、アルピグレンを過ぎる頃空が明るくなって来ました。

Photo_5 線路の側の花も黄色が目立ち、

グリンデルワルトの村も見えてきました。

Photo_6

グリンデルワルト日本語観光案内所はすぐ判ります。しかし通りに面して入口はありません。
初めてだからまごつきます。銀行の横から入ります。ここはスイスなのだが、東京や大阪のツーリストに来たかと惑うほど日本語が溢れています。ポスター、掲示、パンフレット、それに飛び交う言葉に心細い日本人には仏に会った気分になるでしょう。

「あらあら、お世話になっています」と所長夫人の挨拶に、やぎさんはご機嫌です。
夫人の親戚と大阪で懇意にしており「スイスに行ったらここへ行け、が合言葉です」と和やかです。
所長は外出中で2時に会う約束をしました。

昼食にラクレットを食べたいと誰かが言い出し、手頃な店の紹介を頼んだら「ホテル・グラシエ(Glacier)」のラクレットがよろしいと。
そこのメニュには無く、ここの紹介の「特別メニュ」になっているとかで、
すぐ予約をしてもらい、案内図を頼りに道を下ると15分ほど到着しました。
グルンドの近くでアイガーが目の前に見上げられる良い場所で案内され席に着いたらすぐ料理が出てきました。

大きい皿にチーズを融かして広げ、周りに茹でたじゃが芋を花びらのように並べてあり、チーズ嫌いの日本人の口にも合う味で、癖が全くありません。
チーズ好きの「通」には少し物足りないかも知れませんが・・・。

ホテル・グラシエ独自の味付けだといいます。

14時前やぎさんと別れヴェンゲンに戻ることとしました。グルンドまで電車に乗り、ゴンドラでメンリッヘンへ、そこからロープウエイを乗り継ぎます。
最終便の一つ手前17時発に間に合わせました。このルートが一番早いです。

Jungflau_evening_glow  この日、ユングフラウの美しい夕焼けが部屋のベランダから眺められました。茜色に輝く山肌は数分で終わりましたが、明日の好天の前兆とみな喜びました。

(ユングフラウの夕焼け)

Breitohorn_evening_glow_2 (ブライトホルンの夕焼け)

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2009年6月 9日 (火)

79. グラン・サン・ベルナール峠

Map38 グラン・サン・ベルナール峠(標高2469m)は、青銅器時代には人の通った形跡があり、古代からアルプス山脈を越える重要な交通路でした。正確なところは不明ですが、紀元前217年にハンニバルが戦象を連れてアルプス山脈を越えたのもこのあたりとか。
ローマ帝国の時代には皇帝アウグストゥスが街道を敷設し、山頂に神殿が祭られていたと。

Gran1
753年にはローマ教皇ステファヌス2世がフランク王国の国王ピピン3世と面会するために峠を越え、
800年にはカール大帝がミラノでの戴冠式の帰りに越えていると史実は伝えています。

Map5

峠に縁のあるもう1人の有名人がナポレオン・ボナパルトで。1800年5月、ナポレオンはイタリア遠征のために4万のフランス軍を率いて峠を越えました。このとき、ナポレオンは付近の村からワイン21724本、チーズ1.5トン、肉800キロなどの物資を調達し、峠のホスピスに40万フランの借用証を置いていきましたが、フランス帝国政府が実際に支払った代金はその一部だけです。1984年にようやく時のフランス大統領ミッテランが残額を清算しました。

Gd_st_bernard_crosssectiona
18世紀までの間、毎年約2万人の商人や巡礼者が峠を行き交いました。
峠では1年の内250日以上が雪に閉ざされその上、山賊の出没や悪天候、雪崩などにより遭難者が数多く出ました。
1050年、アオスタ大聖堂の助祭長ベルナール・ド・マントン(聖バーナード)は、峠の山頂に遭難者の救助を目的としたホスピス(救護所、ターミナルケアを行う現在の「ホスピス」の語源)を建設し、人々に宿泊と食事を提供しました。こうした功績によりベルナール・ド・マントンは16811年に教皇インノケンティウス11世によって聖人に列せられました。グラン・サン・ベルナール峠の名は彼の名に由来します。

遭難者の救助に活躍したのが犬たちで、嗅覚の鋭いシベリア犬が輸入され、訓練され雪に埋もれた
遭難者を見つけるのに活躍しました。
樽に詰めた食料や気付け薬を遭難者へ送り届け、少なくとも2500人の遭難者が救助されたと伝えられています。なかでも歴史に残るのはバリーという名の救助犬で、1814年にオオカミと間違えられて射殺されてしまいましたが、バリーは生涯で40人以上の遭難者を救助したと伝えられます。
後にこの種は峠での活躍にちなんで「セント・バーナード」(サン・ベルナールの英語読み)と命名されました。

こうした苦難に満ちた史実やエピソードを偲び訪れたのは96年、98年の2回です。
96年のときは国境の検問が厳しい折でしたが、峠で休んでいると関西から来たと言う女性は関西弁を話す私たちに、日本人は絶対に居ないと信じて来たが、関西人6名と会うとはと、がっかりびっくりでした。程なくバスで引き返すとのことでした。

Orsieres2_2

スイス側のグランサンベルナール街道はマルチーニから約15kmのオルシエール辺りから始まります。

Orsieres

グランコンバン山(4314m)が左手はるかに見え、ダム湖を過ぎるとトンネル道と峠道の分岐点
になります。

Route_du_grand_st_bernard
幾つものヘアピンカーブが続く峠の街道は岩石だらけで、岩陰に僅かのコケ類が生えるだけの地獄の1丁目の感じです。

Hospice
峠の頂上には修道院と救護所(ホスピス)があり、湖の傍を通ってスイス、イタリアの検問所があり、
聖バーナードの銅像は土地が広いイタリア側の岩場の斜面に建っています。
また峠には博物館や救助犬の飼育舎があり種の保存をしています。

Dog_hause2_3

 

Col_de_grsbn

10月には雪が降り、雪解けは5月です。峠の下にトンネルが出来たので峠の往来は観光客と巡礼者
だけです。
巡礼者は聖バーナードの銅像を拝んで帰ります。土産物の店が沢山並んでいます。

Border04

St_bernard_s

St_bernard

98年のときは岩の斜面につけられた小道を徒歩で辿り銅像に傍に行き、イタリア側の検問でご苦労さんと挨拶して、スイス領へ入りましたが、国境は幅50センチの溝があり標識が立って
います。

Border05

Border01

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巡礼者の団体と一緒に境界を通過しましたが、彼らの会話の中に「グランパ、グランマ」と言って道路脇の石垣に刻まれた落書きらしきものを指していました。彼らの爺さん婆さんに聞いて、残したのを孫たちが見つけたのでしょう。代々巡礼に来ているのでしょうか。

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イタリア側に入ると急な下りに坂になり、岩石と苔の生えた景色が続きますが、イタリア側は日当たりが良いのか草地に小さな花が咲くのが見られます。

Gd_st_bernard01

バスはアオスタ渓谷を目指し、旧道をゆっくり下って行きました

ここはフランス語圏で峠の正式名は col du Grand St-Bernard
救助犬は  Saint Bernard 英語読みです。

峠の詳しいデータ類はアルプスの峠に詳しいKitamuraさんの
http://www.eu-alps.com/i-site/cols/data/011.htm
を参照ください。

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2009年5月 2日 (土)

49. グリムゼル峠ーローヌとアーレの分水嶺

Grimselpath11 グリムゼル峠(標高2165m)はフルカ峠と隣合わせにあります。フルカ峠から直ぐ下のグレッチの窪地の向こうに、壁にへばりつくように設けたヘアピンカーブが望めます。

Aare

この峠はローヌ谷とベルナーオーバーラントを結ぶ重要なルートで重要な峠です、またこの峠はローヌ川とアーレ川の分水嶺で、アーレ川はブリエンツコ湖、インターラーケン、トゥン湖、ベルンを通りスイス北部でライン川に注いでいます。

Totesee
峠のテッペンにある「トート湖」は死の意味で、18世紀末フランスとオーストリア軍が戦った古戦場でといわれます。

Grimselhospitz 

北側直ぐ下にグリムゼル湖があり、石造りのホテルホスピッツで昼食をとる人が多く見られます。

Hospiz_2

Old_hospiz_2

以前はこのホテル、下のほうにありましたが、グリムゼル湖をダムにするとき今の所に新しく立て替えました。(1920年)

Grimsel_see_2

ダム湖は乳白色に濁り、近くにチンゲンシュトック(2915m)、遠くにベルナーオーバーランド最高峰フィンスタールホルン(4274m)が望まれます。

峠の北側は20km先のマイリンゲン(標高595m)へ緩やかに下って行きます。

アルプスの峠、車で走破したKitamuraさんのサイトは
http://www.eu-alps.com/i-site/cols/data/027.htm

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2009年5月 1日 (金)

48. フルカ峠ーラインとローヌの分水嶺

Furukapath_map フルカ峠(標高2431m)はアンデルマットの西、ウルゼレン渓谷の西端にあってロイス川とローヌ川の分水嶺です。ロイス川はルツェルンを通り北上してバーデンでライン川と合流します。後にラインー川はドイツを経て北海へ注ぎます。ローヌ川はローヌ氷河に端を発し麓のグレッチ湿地帯を抜けローヌ谷を流れ、スイス最大の湖、レマン湖へ入りそこからフランス中部を南下して地中海に注ぎます。

この2つの大きな川の源流がフルカ峠を挟み僅か3kmしか離れて存在することは案外知られていません。

Capt0000
さて、フルカ峠の東のヘヤピンカーブを一気に登りなだらかな道に差し掛かりますと夏は放牧された牛が遊んでいます。

Furuka8

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右手は山岳、グロース・フルカホルン(3169m)とクライネ・フルカホーン(3026m)が聳えます。

Furuka1

左手の谷を見ると廃線になった旧フルカ鉄道の線路が見えます。
世界的に有名な「氷河急行」は以前はオーバーワルト、レアルプ間のフルカ峠を2時間もかけて越えていました。

フルカ峠の西端ではローヌ氷河が車窓から見られるので「氷河急行」の名が付いたのです。
冬から春にかけ降雪、雪崩でしばしば運休になるので、スイス政府はトンネルを掘り、峠を走る線を廃止させました。「氷河急行」はいまはトンネルを通り「氷河」は見えません。

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ところが、鉄道好きはボランティアを作りヴェトナムに売った蒸気機関車を取り寄せ廃止した線を走らせて
自主管理し夏の間、土日に運転し、人気を博しています。

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峠の西端のベルヴェデーレには氷河に横穴を開け、木の桟橋を付け、有料で観光客が入れるようにしています。

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最近はパック旅行も入ってきて青く輝く氷の洞窟を見る人が増えてきました。
内部には縫いぐるみの熊がおり、記念写真を撮って送ってくるサービスをしています。(有料)

冬の間峠は積雪のため交通止めになります。春になると、峠の開通に間に合うよう関係者はヘリコプターでやって来て、雪かき、洞窟掘り、桟橋架橋などで大変らしいと聞きました。

Photo 峠の東側の下りは東側の道より更にくねっています。
自転車ロードレースの一つ、ツール・ド・スイスでは山岳ステージにヌフェネン、ゴッタルド、フルカの3峠を越えるコースが時折設定されますが、フルカ峠の下りで転倒する選手をよく見かけます。それほど難しい下り道です。

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途中、グリムゼル峠への分岐点を通過しますが、グリムゼル峠の紹介はこの次に・・・・

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2009年4月30日 (木)

47. オーバーアルプ峠ーラインの源流を訪ねて

ライン川の源流、トゥマ湖へは、オーバアルプ峠(標高2044m)
から南方へ約3.5km、だらだら上りの水平道を辿ります。湖の手前で急坂になる程度で、峠から標高差僅か300mしかなく簡単に行けます。

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98年7月、アンデルマットは夜半雨が降り朝方は視界100程の霧。駅の売店で予報を聞くと新聞では「晴れ」と聞き嬉しくなりました。フルカ鉄道(いまはゴッタルド鉄道)の電車がオーバーアルプ峠を登ると四方ガス、数メートル先が見えず不安がよぎります。オーバーアルプ・ヘーエ駅で降り、車道の脇をそろりと進みます。峠の標識を過ぎ草原へ下る脇道にはいる頃、霧が急に晴れてきてバンザイ。
小さな沢を3つ過ぎると岩場のジグザグの急な登りになります。グループの女性から「あとどれ位」と悲鳴が上がったのはこの頃です。

Tuma3r_2

ライン川の源流は諸説がありどこかはっきりしません。その中でトゥマ湖(トゥーマ湖)が一番有名です。
源流の議論する前に誰かが声を大きくして言って、早いもの勝ちになったのかも知れません。湖の奥に「1320kmに及ぶライン源流」の標識が建っているし、スイス観光局のハイキングガイドにも「源流」と載っています。
この湖は観光スポットではありますが、ハイキング標識が立つだけの岩山に囲まれた寂しい湖です。
紺色の水を蓄えたトゥマ湖は岸辺に僅かの草地だけ、あとは岩山です。自販機も売店もありません。

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湖の東端に幅、2mほどの川が静かに流れはじめ、10m先から滝のように岩の裂け目を100m流下
「ライン川を二跨ぎ」と流れの中の石に片足を乗せ記念撮影が続きました。

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平地に降りついて振り返ると、V字形の狭間から一筋の渓流が足許へ来ており、これが「ライン」の始まりと感激。
記念写真を撮っているとそばに小型乗用車が来ました。峠から一走りして、100m急坂を上れば湖に行けるのか・・・

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峠の東側、赤い電車が走るのが見え、足元のライン川(フォルダー・ライン)の流れと、峠を登る
ヘヤピンカーブ、ラインの谷の始まりを象徴しています。

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峠のテッペンで一休みしましょう。

オーバーアルプ峠の詳細はkitamuraさんのサイトを紹介します。

http://www.eu-alps.com/i-site/cols/data/039.htm

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2009年4月29日 (水)

46. サン・ゴッタルド峠

アルプスを南北に縦断する峠の多くはローマ時代から設けられ南北の交易ルートになっていました。
しかし峠は国境に接し領地が変わるたびに通行税が課せられていました。
またて雪解けのとき雪崩で道路が荒れ保全が大変でした。峠に通じる街道はわざと荒れ放題にして遠回りをさせ時間がかかるようにしたのもあります。

Capt0000

ハクスブルグ家との戦いに勝ち独立を果たしたスイスは、13世紀半ばゴッタルド峠が開通させ、
シェレネン渓谷のロイス川に橋(悪魔の橋)が架かり街道が全線開通させました。
イタリアとルツェルン、チューリッヒを経由してドイツへ至る経済の大流通ルートになりました。

Google そこで、イタリア、フランス、ドイツの列強はここに目をつけ干渉し覇権を争ってきました。
スイスはどの国とも争わず、街道の整備管理、峠の宿、交代する馬の管理など相手の言い分を聞き、主張することは主張し、我慢強く話し合いで解決する方法を貫きました。これが中立国家の基本の始まりの一つとされています。

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峠は標高2106m、峠の名はドイツの有名な司教サン・ゴットハルトを記念する礼拝堂が1300年頃建てられた由来しています。
現在道路は3本あり、石畳の旧道、大型車が通れる新道、峠に掘ったトンネル道で、スイスを南北に貫く重要な街道でスイスの生命線となっています。

Gota4
なお、トンネル地下道とは別にスイス国鉄の鉄道トンネルも平行して走っています。
峠道が通る谷は「トレモラ谷」(震えるという意味)といわれ石畳の多い旧道の激しいつづら折はそれを物語ります。

第2次大戦でイタリアに進入を企てたヒットラーはこの峠を突破しようとしましたが、
スイス軍は街道、都市を守らずに全軍を峠の山中に集中させ、鉄道トンネルも破壊すると宣言し、ヒットラーを諦めさせた話は戦後の語り草になっています。

Gota2

いま平和時、峠を下る4頭立て観光馬車は小型車だけが通れる旧道をのんびりと走っています。

グリムゼル峠の傍、ローヌ氷河を取り巻くダマシュトック山から南に伸びる山脈はここを通り、ライン川
とティチーノ川の分水嶺になっています。

アルプスの峠の殆どを走破され体験記をアップされ、解説に詳しいKitamura さんのサイトは

http://www.eu-alps.com/i-site/cols/data/032.htm

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