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2009年4月13日 (月)

35. ルツェルン(1)ライオン記念碑

スイスを感光する人の殆どはルツェルン市を訪れます。スイス第一歩か、スイス最後の日のどちらかを取るようです。

中世の面影を残す「旧市街」、花で飾られた木造の屋根付きの橋「カペル橋」、同じく屋根付きの「シュプロイヤー橋」、「ムーゼック城壁」など多くの観光名所があります。

今回はライオン記念碑を訪ねます。

百獣の王であるライオンではありまません。息絶え絶えの「瀕死のライオン像」です。

当時スイスは今日のような豊かな国ではありませんでした。石ころだらけの山の斜面を耕し牧場にし、牛を放牧して、ミルクを搾りチーズを作って稼ぐ貧乏百姓の国でした。長男以外の男子は傭兵として外国へ出稼ぎに行きました。スイス傭兵は勤勉、勇猛に戦うので、どこの国からも歓迎されました。

000037 1792年、フランス革命のとき、チュルリー宮殿でルイ16世とマリーアントワネットを守るため革命軍と戦い全員命を落としました。
伝え聞いたデンマークの彫刻家トルバルセンが悲劇を讃え山の斜面の岩に鎮魂の慰霊碑を彫りました。
池を挟んだ広場には毎日観光客が訪れ勇猛果敢に戦ったスイス兵を偲んでいます。

Photo 戦死したスイス兵は786ですが、ガイドボック等では8月10日全員戦死とあります。
しかし、瀕死のライオン像の下に彫られた碑文には「1792年8月10日、9月2日、3日」とあります。


原文は「DIE X AUGUSTI,II ET III SEPTEMBRIS MDCCXCII」
DIE X AUGUSTI は 8月10日です。
II ET III SEPTEMBRIS は 9月2か3日、
MDCCXCIIは1792のローマ数字、
M=1000、D=500、C=100、CC=200
XC=90、I=1、II=2
1000+500+200+90+2=1792

8月10日革命当日と9月2、3日の意味が不可解でならず、ルツェルン市広報局へメールを送り尋ねたところ次のことが判りました。
8月10日に600余名が戦死、残りが捕らわれ3週間後の9月2日から3日にかけて革命軍側により処刑されたいいます。

Lion_l

現地で発行している日本語パンフレットによれば、

「瀕死のライオン像は不道徳な行為を戒め、ルツェルンの美しい町を大切に守っていくことを人々に語りかけています。これはルツェルンの町を、ルツェルンを訪れる人々を愛するのと同じくらい愛する願いであり、ルツェルンの誇りとする伝統です。」

ライオン像にかける思いが偲ばれます。

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